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人生朝露

人生朝露

湯川秀樹と渾沌。

荘子です。
荘子です。

湯川秀樹(1907~1981)。
≪「荘子」
 小学校へ入る前から、漢学、つまり中国の古典をいろいろ習った。といっても祖父について素読をしただけである。もちろん、はじめは意味は全然わからなかった。しかし、不思議なもので、教えてもらわないのに何となくわかるようになっていた。習ったのは儒教関係のものが多く、「大学」からはじまり、「論語」「孟子」その他、「史記」「十八史略」なども教わった。
 「史記」などの歴史書は別にして、儒教の古典は私にはあまり面白くなかった。道徳に関することばかり書いてあって、何となくおしつけがましい感じがした。
 中学校に入ることには中国の古典でも、もっと面白いもの、もっと違った考え方の書物があるのではないかと思って父の書斎をあさった。「老子」や「荘子」をひっぱりだして読んでいるうちに、荘子を特に面白いと思うようになった。何度も読み返してみた。中学生のことではあり、どこまでわかったのか、どこが面白かったのかと、後になってから、かえって不思議に思うこともあった。
 それからずいぶんと長い間、私は老荘の哲学を忘れていた。四、五年前、素粒子のことを考えている最中に、ふと荘子のことを思い出した。

 南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相与(あいとも)に渾沌の地に遇へり。渾沌之を待こと甚だ善し。儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを計る。曰く「人皆七竅(しちきょう)有り、以て視聽食息(しちょうしょくそく)す、此れ独り有ること無し。嘗試(こころみ)に之を鑿(うが)たん」と。日に一竅(いちきょう)を鑿(うが)つ。七日にして渾沌死す。

 これは「荘子」の内篇のうち、応帝王第七の最後の一節である。この言葉を私流に解釈してみると、

 南方の海の帝王は儵と為し、北海の帝王は忽という名前である。儵、忽ともに非常に速い、速く走ることを意味しているようだ。儵忽を一語にすると、たちまち束の間とかいう意味である。中央の帝王の名は渾沌である。
 或るとき、北と南の帝王が渾沌の領土にきて一緒に会った。この儵、忽の二人を、渾沌は心から歓待した。儵と忽はそのお返しに何をしたらよいかと相談した。そこでいうには、人間はみな七つの穴をもっている。目、耳、口、鼻。それらで見たり聞いたり、食べたり呼吸したりする。ところが、この渾沌だけは何もないズンベラボーである。大変不自由だろう。気の毒だから御礼として、ためしに穴をあけてみよう、と相談して、毎日一つずつ穴をほっていった。そうしたら、七日したら渾沌は死んでしまった。

 これがこの寓話の筋である。何故この話を思い出したのか。
 私は長年の間、素粒子の研究をしているわけだが、今では三十数種にも及ぶ素粒子が発見され、それらが謎めいた性格をもっている。こうなると素粒子よりも、もう一つ進んだ先のものを考えなければならなくなっている。一番基礎になる素材に到達したいのだが、その素材が三十種類もあっては困る。それは一番根本になるものであり、あるきまった形をもっているものではなく、またわれわれが今知っている素粒子のどれというものでもない。さまざまな素粒子に分化する可能性を持った、しかしまだ未分化の何物かであろう。今までに知っている言葉でいうならば渾沌というようなものであろう、などと考えているうちに、この寓話を思い出したわけである。
 素粒子の基礎理論について考えているのは私だけではない。ドイツのハイゼンベルグ教授は、やはり素粒子のもとになるものを考え、それをドイツ語でウルマテリー(原物質)とよんでいる。名前は原物質でも渾沌でもいいわけだが、しかし私の考えていることとハイゼンベルグ教授のそれとは似たところもあるけれども、またちがったところもある。

 最近になってこの寓話を前よりもいっそう面白く思うようになった。儵も忽も素粒子みたいなものだと考えてみる。それらが、それぞれ勝手に走っているのでは何事もおこらないが、南と北からやってきて、渾沌の領土で一緒になった。素粒子の衝突がおこった。こう考えると、一種の二元論になってくるが、そうすると渾沌というのは素粒子を受け入れる時間・空間のようなものといえる。こういう解釈もできそうである。
 べつに昔の人の言ったことを、無理にこじつけて、今の物理学にあてはめて考える必要はない。今から二千三百年前の荘子が、私などがいま考えていることと、ある意味で非常ににたことを考えていたということは、しかし、面白いことであり、驚くべきことでもある。
 科学は主としてヨーロッパで発達していた。広い意味でのギリシャ思想がもとにあって、それを受けついで科学が発展してきたのだといわれている。最近亡くなったシュレーディンガー教授の書いたものをみると、ギリシャ思想の影響のないところには、科学の発展はないと言っている。歴史的にそれは正しいであろう。明治以降の日本をみても、直接ギリシャ思想の影響を受けたかは別として、少なくとも間接的にはそこから始まってヨーロッパで発達した科学を受けついでいる。
 過去から現在まで大体そうなっているのだから、それでいいとしよう。しかし、これから先のことを考えてみると、何もギリシャ思想だけが科学の発達の母胎となる唯一のものとは限らないだろう。東洋をみると、インドにも古くから、いろいろの思想があった。中国にもあった。中国の古代哲学から、科学は生まれてこなかった。たしかに今まではそうであったかもしれない。しかしこれから先もそうだと決めこむわけにはいかない。
 中国の古代の思想家の中で、私が最も興味を持ち、好きなのが、老子と荘子であることは、中学時代も今もかわらない。老子の思想は、或る意味で荘子より深いことはわかるのだが、老子の文章の正確な内容はなかなかつかめない。言葉もいい廻しもむつかしく、注釈を読んでも釈然としない点が多い。結局、思想の骨組みがわかるだけである。ところが荘子の方は、いろいろ面白い寓話があり、一方では痛烈な皮肉を言いながら、他方では雄大な空想を際限なく展開させてゆく。しかもその根底には一貫した深い思想がある。比類のない名文でもある。読む方の頭の働きを刺激し、活発にしてくれるものが非常に多い気がする。前の渾沌の話も、それ自身はべつに小さな世界を相手にしたものではなく、むしろ大宇宙全体を相手にしているつもりであろう。自然の根本になっている微少な素粒子とか、それに見合う小さなスケールの空間・時間を論じたものでないことは明らかである。ところが、そこにわれわれが物理学を研究して、ようやく到達した、非常に小さな世界がおぼろに出てきているような感じがする。これは単なる偶然とは言いきれない。そう考えてくると、必ずしも科学の発達のもとになりうるのはギリシャ思想だともいえないように思う。老子や荘子の思想は、ギリシャ思想とは異質なように見える。しかし、それはそれで一種の徹底した合理主義的な考え方であり、独特の自然哲学として、今日でもなお珍重すべきものをふくんでいると思う。
 儒教にせよ、ギリシャ思想にせよ、人間の自律的、自発的な行為に意義を認め、またそれが有効であり、人間の持つ理想を実現する見込みがあると考えるのに対して、老子や荘子は、自然の力は圧倒的に強く、人間の力ではどうにもならない自然の中で、人間はただ右へ左へふり廻されているだけだと考えた。中学時代には、そういう考えを極端だと思いながらも強くひかれた。高等学校の頃からは、人間が無力だという考え方に我慢がならなくなった。それで相当長い間、老荘思想から遠ざかっていた。しかし、私の心の底には、人間にとって不愉快ではあるが、そこに真理がふくまれはていることを否定できないのではないかという疑いがいつまでも残った。
 「老子」に次のような一節がある。

 天地は不仁、万物を以て芻狗(すうく)と為す 聖人は不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗と為す。

 芻狗は草で作った犬の人形。祭が済んだらすててしまう。天地は自然といってもいいだろう。不仁というのは思いやりがないということであろう。老子はこういう簡単な表現で、言い切る。

「荘子」の方は、面白いたとえ話を持ち出す。

 人、影を畏れ、跡を悪(にく)んで之を去(す)てて走る者有り。足を挙ぐること愈々(いよいよ)數々(しばしば)にして、跡愈々(あといよいよ)多く、走ること愈々疾(と)くして影身を離れず、自ら以為(おもへ)らく尚遅しと、疾(と)走って休まず、力絶って死す。知らず陰に処(お)りて以て影を休め、靜に処にて以て跡を息(や)むるを。愚も亦た甚し。

 ある人が自分の影をこわがり、自分の足あとのつくのをいやがった。影をすててしまいたい、足あとをすてたい、そこからにげたいと思って、一生懸命ににげた。足をあげて走るにしたがって足あとができてゆく。いくら走っても影は身体から離れない。そこで思うのには、まだこれでは走り方がおそいのだろうと。そこでますます急いで走った。休まずに走った。とうとう力尽きて死んでしまった。この人は馬鹿な人だ。日陰におって自分の影をなくしたらいいだろう。静かにしておれば足あともできていかないだろう。

 このような考え方は、宿命論的で、一口に東洋的といわれている考え方にちがいないが、決して非合理的ではない。それどころか今日のように科学文明が進み、そのためにかえって時間に追われている私たちにとっては、案外、身近な話のように感ぜられるのである。私の心の半分はこういう考えに反撥し、他の半分は引きつけられ、それが故に、この話がいつまでも私の記憶に残るのであろう。本の面白さにはいろいろあるが、一つの書物がそれ自身の世界を作り出していて、読者がその世界に、しばらくの間でも没入してしまえるような話を私は特に愛好する。その一つの例として、先ず「荘子」をとりあげてみたのである。(一九六一年四月)(湯川秀樹著『本の中の世界』「荘子」より)≫

渾沌。
渾沌というと、『左伝』とか『山海経』の記述から、こういうイラストで説明することもありますが、湯川さんが想像している『荘子』の渾沌とはこれではないと思いますね。

参照:Wikipedia 渾沌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%BE%E6%B2%8C

どちらかというと、『古事記』の「臣安万侶言。夫混元既凝、気象未效。無名無為。誰知其形。然乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二霊為群品之祖。所以出入幽顕、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。」であったり、『日本書紀』の「古天地未剖 陰陽不分 渾沌如鶏子 溟滓而含牙. 及其清陽者薄靡而爲天 重濁者淹滯而爲地。」とかでも流用されている原始的な、未分化の混沌のイメージに近いんじゃないでしょうか。もちろん、『記紀』の渾沌で、『荘子』の渾沌をあがなうことはできませんし、湯川さんもおっしゃっているように、無闇に「渾沌に目鼻を付ける」のは好ましいこととは思えません。

参照:「元気」の由来と日本書紀。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5082

今日はこの辺で。


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